ちいさなこだわり~食・旅・短歌~

渡邉円

1982年串間市生まれ。
ある日短歌と出会い帰郷。
美味しい食べ物に囲まれて、宮崎ライフを満喫中。
「都井岬短歌大会」「歌垣」など宮崎県内で短歌イベントを開催。

お弁当と短歌。

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お弁当と短歌。ちいさなこだわり~食・旅・短歌~

 

今回は、お弁当と短歌。

 

 

お弁当の短歌には、同じ家に寝起きしながら日中を離れて過ごす家族を思う歌が多くあり、胸を打たれた。

日常も、ちいさな旅を重ねているのだと、気付く。

 

 

弁当の卵焼き食ふ片方の端を今ごろ子も食ひをるか 小林信也『千里丘陵』

千里丘陵は、大阪の豊中・吹田・茨木・箕面にまたがる丘陵地で、1960年代に日本で初めての大規模なニュータウン開発が行われた。高度経済成長の中心的労働力である若いファミリーが、短期間に集中して入居したという。大阪万博開催も決まっていた、かの地の熱気は想像に難くない。作者は、千里ニュータウンに生活するサラリーマンであろうか。弁当の卵焼きの端と端を子と分け合う。はたと気づいたが、この時期、父と子は三食同じメニューを腹に収めていたのではないか。食べもので、人の思考は形成されるというのはわたしの自論だが、弁当を食い終わった小林親子の息づかい(そっくりなのでは)が聞こえるようだ。

 

酔ひ歩くときも携ふ弁当箱今宵は梅干の種が音する 小田朝雄『潮流』

弁当箱は、朝、家を出るときに持つ。決して忘れてはならない。駅までの道、電車の車内、会社のロッカー、弁当箱は作者とちいさな旅をする。飲み会がある日は、正直、カバンのなかに空の弁当箱や水筒があるのはじゃまっけだ。しかし、会社に置いてゆくわけにはいかない。梅干しは、腐敗防止のために弁当に入れられることが多いが、弁当になくてはならない一品としての存在感もある。また、梅干しの種の仁は「天神様」と言われる。その種が、カバンの奥でカラカラと鳴る。種も供に飲酒を楽しんでいるようだ。明日もまた、供に旅する同志よ、早よ帰らんかー。と言っているのかもしれない。

 

 

鰯の背骨夫とわたしのそれぞれの弁当箱にのこりぬゆふべ 上村典子『貝母』

弁当のお菜となったのは、鰯の丸干しだろうか、梅煮だろうか、フライだろうか…。わたしは、魚をおろすことが苦手で、スーパーに旬の魚を見つけても、逡巡し、ようやく手にするものの「だ、大丈夫かな」と心の声は鳴りやまず、ネットでレシピを確認し、新聞紙を何枚も敷いた台所でおそるおそる調理を開始する…という体たらくだ。弁当に鰯が入っているなんて、作者は相当の料理上手である。鰯は、群れをなして行動する回遊魚である。弁当を毎日携えて仕事場へゆく夫と自身を、鰯に重ねているのだろう。ちいさな旅を経て帰宅した弁当箱には、しっかりとそれぞれに背骨が残っていた。それは夫婦の背骨を貫く矜持のようだ。うれしい発見をした台所には、充実した日々をたたえるように、暮れなずむ夕日が明るく射していたのではないだろうか。

 

 

もう抱けぬ重さの吾子の弁当に取りておくいちばん大きい苺 平岡三和子『迷路遊園地』

作者は、スーパーで苺を買うときから「明日の弁当にも使えるし…」と考えていたのだろう。そして、夕食後のデザートに苺を洗っているときに、その中でもいちばん大きい苺を子供に取り置いた。もちろん、他の家族には相談することなくひとりで決めたのだ。いつだってこの胸に抱いていたいのに、子供は成長する。中学生だろうか高校生だろうか。眼差しで、心で抱くことはあっても実際には、もう、抱くことはない。子供の成長をうれしく思いながら、さびしさも伝わる良い歌である。朝のキッチンは、慌ただしくもあるが、調理する時間は不思議と静寂でもある。忙しく手を動かしていると心が整ってくる。「毎日の弁当も、あと数年で作ることもなくなるんだなぁ」「どんどん大きくなってゆくなぁ」と考えながら、卵を焼いたり青菜をゆでたりする。仕上げに、昨夜取り置きしていた苺をのせる。苺をお弁当にのせるには“弁当箱に詰めたご飯やお菜が完全に冷めるまで待つ”というひと手間も必須である。

 

手塩といふやさしき味をむすびたる越のしら飯野にかがやかす 馬場あき子『青椿抄』

「手塩」とは、辞書には、昔食膳に備えて適宜に用いた塩とあるが、今回は「手塩にかける」という慣用句をやっぱり思う。“自分で直接面倒を見て大切に育てること”、というその言葉を単語をまるごと味覚を示す表現として用いている。やさしく、おおきい表現力であるなぁと嬉しくなる。手塩にかけて育てたお米、そして塩。日本人は、稲が成長する姿を無条件に可愛い!と思える能力を備え持つ民族である。と、古事記の先生から聞いたことがある。「越」とは「越の国」。現在の、山形県から福井県にまたがる日本海側の地域である。作者は、コシヒカリ(かどうかは不明だが)の真っ白いおむすびを持って、野に遊んだのだ。先日、わたしたちが日向の地で開催した『歌垣』を越の地で行っていたのだ。そして、その地で詠まれた歌は、野を越え山を越え、時間も越えてわたしたちの胸に、今届いた。感慨深い。

 

 

 

更新日時:2014.05.07(水) 00:00:13

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