ちいさなこだわり~食・旅・短歌~

渡邉円

1982年串間市生まれ。
ある日短歌と出会い帰郷。
美味しい食べ物に囲まれて、宮崎ライフを満喫中。
「都井岬短歌大会」「歌垣」など宮崎県内で短歌イベントを開催。

旅に出るなう。

秋です。いよいよ、旅に出たい気持ちが抑えきれなくなったなう。旅に出るなう。牧水が現代に生きていたなら、FacebookやTwitterを駆使して発信しまくっていただろうな。

「健やかな病気である」

若山牧水が旅に焦がれる様子を、赤坂憲雄氏はぴたりと表現されました。宮崎で開催された『牧水研究』のイベントでの一幕。なるほど、ビョーキ…。健やかな、ビョーキ…。

牧水さんのことをよくご存じの方もいらっしゃるでしょうし、まったく知らない方もおられると思うので。この場をお借りして、ご紹介します。

日向市東郷町坪谷出身の歌人・若山牧水は、今から約130年前に生まれました。「旅の歌人」と呼ばれています。生涯の9分の1を旅に過ごしたのだそう。大学を卒業して、社会人になってからは、なんと5分の1を旅に過ごしたと言うからすごいですよね。牧水は、どうして旅に焦がれ続けたのでしょうか。

【幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく】

(いくやまかわ こえさりゆかば さびしさの はてなむくにぞ   きょうもたびゆく)

この有名な短歌は、牧水が本格的に旅人生活をはじめる前に作られました。22才の学生の頃の作品です。その後の人生を予見するような、人生が歌の後を追いかけたかのような様子です。言葉というのは不思議で、ぽろっと口から心からこぼれ出ることがあります。自分でも思いがけない素直な気持ちだったり、願望であったりするのですが。晴れやかなとてもいい気分になることもあるでしょうし、複雑な認めたくないようなうしろめたい気持ちになることもあるでしょう。短歌は、誰に向けて作るのでしょうか。ときどきの対象は例えば「君」であるかもしれないけれど、実は短歌の神様にむかって歌をつくっているんじゃないかなとわたしはいつも思っています。偉そうなことを言いますが、きっと、牧水もそうだったのではないかな。万葉の歌をみつつ、現代のわたくしに目を配りつつ、未来の短歌を眺めている。そんな短歌の神様の様子は気配はいつも身近にあります。旅へ焦がれる気持ちも、君への想いも、全部受け止めてくれるのは短歌。歌人と呼ばれる人たちは、5・7・5・7・7の定型をすいぶん信頼してしまっているのです。

よく、短歌ってストレス発散のツールなんでしょ。溜まってる胸のダークなのを形にできてスッキリするんでしょ。と意地悪なことを言われるのだけれど。うーーん、あくがれっす!と、答えるようにしています。至らないのは短歌ではなくて、わたくしなのですから。

牧水の時代は、汽船や汽車を乗り継いで旅をしていたのでしょう。現在は、それらに加えて飛行機で旅を楽しむことができます。

宮崎空港は空の玄関口。神楽時計は、長針が12を指すたびに舞いを見せてくれます。神話の国宮崎は2013年の古事記編さん1300年を皮切りに2020年の日本書紀編さん1300年まで奈良県とタッグを組んで突き進んでゆくらしく、横断幕にも気合が感じられます。売店にはマンゴー、ねりくり、飫肥天、焼酎、ワイン、へべす、ういろう、辛麺、炭火焼地鶏、ゆずこしょう、九州パンケーキ、綾のハーブ、、。民芸品好きにはたまらない佐土原人形に埴輪に、、。レストランではチキン南蛮をはじめ、噂のガンジスカレーも、今なら月替わりの本格シェフプロデュースのスープも味わうことができます。本屋さんは小さいながら、ナイス!なセレクトで空の旅を楽しませてくれます。機内誌もすばらしいですよね。わたし大好きなの、機内誌。

なはんて旅に出る気持ちを身の内に育てつつ、じっさいは旅に出ていなくても毎日が旅であるんだよね。まだ見ぬ今日の明日のわたしと出会う旅。生きているかぎり(短歌風に言うと)「我は旅人」なのです。

それにしても、とにもかくにも。宮崎空港はすてき。空港でね、半日過ごせちゃうよね。

【ゆく秋の旅人われは中空の飛行機に居て雲にやすらう】渡邊 円

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更新日時:2014.09.21(日) 00:00:39

宮崎の台所 1.営業のツールはカレーと干物

〈台所主〉60代/男性(営業職)、妻(主婦)と猫(メス2匹)の4人暮らし

「みんな俺のカレーのファンなんだよな~」という台詞をもう10年以上聞かされている。会うたびに改良を続けているらしく、毎回「今回のカレーは最高の出来だ!」と言いながら、ジップロックに小分けしたカレーを手渡してくれる。台所の脇のドアを開けると、カレー専用の冷凍庫がある。引き出し式の冷凍庫の棚は3段。どの棚にもびっしりカレーが詰まっている。

「実は、カレーだけじゃないんだよ。俺の干物も旨いんだ。お客さんはみんな俺の干物にホレてるんだよな~」と、どこかで聞いたセリフがまた聞こえてきた。

高校を卒業するまで、この家で暮らした。戦後生まれのいわゆる団塊の世代。東京の大学へ進学したものの、安保闘争の影響もありほとんど学校へは行かず新宿の喫茶店で小説を書いて過ごしたという。物価の高騰には悩まされた。

「俺は小説を書く関係で行かなかったんだ…」と振り返る大学生活。催涙ガスが漂い、デモが毎日のように行われていた東京。大学1.2年のころは、新宿中村屋の工場の総務課でアルバイトをした。アルバイト先へは、調布の下宿から通った。3.4年の頃には葛飾のお花茶屋に引っ越していろんなアルバイトをやってきた。料理はほとんどしなかった。何を食べて過ごしていたのかは思い出せない。昼はほとんどまともに食べていなかった。唯一覚えているのは神田のキーマカレー。そして『ハイライト』という店名の喫茶店。『ハイライト』では当時のハイライトと同じ値段でコーヒーを飲ませてくれた。コーヒー1杯で、朝から夕方まで粘った。小説も書き終え、大学も無事卒業し、就職した。

地元宮崎の4歳年下の女性とお見合いそして結婚を経て、故郷の土地を踏んだのは30歳を超えた頃。相変わらずの故郷。「秋も霞のたなびきてをり~だな」と嬉しそうにつぶやく。

カレーの研究をはじめてもう15年になる。きっかけは横浜の大学に進学した息子に、保存食として栄養のとれる食べものを送ってあげたいという思いだった。作ってるうちに、何とか旨く仕上げたいとあれこれ改良を続けてきたが、あくまでもインスタントの延長である。たいしたもんじゃない。と本人はきっぱりと言い切る。

「結局、俺はマザコンなんだな。串間に帰りたかったんだな。東京で生活していてもいつも田舎に帰りたいなーと思ってたんだよ」と言う。「でも東京にいたほうがよかったんじゃないの?」と意地悪な質問を投げかけてみたのだが「イヤーそうは思わんな。お金の面で苦労はしたけど、自然と一緒に生きてゆける。隣近所の人がいて、自然がある。うちの前から河をみるだけでも癒しになる。都会生活は好きじゃねーしね。人のためになるからやってるもんで、金を稼ごうと思えばいくらでも違う方法がある。ぶばらない、肩肘はらない、そんな生き方。自然に生きていて飯が食えないもんかって思うよね」ぎゃふん、である。大正解の模範解答ではないか。

営業の仕事も特に無理して生活のためにやってるという意識は無い。お客さんが納得したら、お客さんから声がかかる。

「カレーと一緒なんだな~」

カレーを渡すとお客さんが喜んでくれる。「カレーは辛いからカレーなんですよ!なんて言って渡すんだよ。でも、ワンパックで原価が500円かかるんだよな。市販のルーを使わなければもっと原料代を節約できるかもしれないけど勇気がないんだなー失敗したら人にはヤレンもんなー。1回で150食分作るんだよ。お玉一杯100円。辛さの秘訣は唐辛子。と言ってもスーパーで売ってるやつなんだけど」と、どこまでも肩肘を張らない。ぶべらない。

「干物は自分で食べたいものを自分で作る。確かに塩がきつめなんだけど、生臭さがない。港に揚がった魚をいかに鮮度を落とさずに美味しく仕上げるか、常に研究してるんだ」肩肘は張らないけれど、常にベストを尽くしたいようだ。

「俺は世の中に逆らってるんだな。人が作ったものは食べたくない。どうせなら、自分で旨いもんを作りたい。自分でおいしいと思うからお客さんに食べて欲しい。共感されたいんだな」うん、とてもよく解る。今回の台所主はわたしの父である。

猫達は父の帰宅を毎日、心待ちにしている。車のエンジンの音を聞き分けて、玄関でお出迎えするのだ。しかもこの猫達、母娘なのだがすこぶる美人である。同居している妻にもときどき帰ってくる娘にも愛想ひとつ振り撒かないくせに【ご飯をくれるおとうさん】の扱いを、心得ているのだ。

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更新日時:2014.09.07(日) 00:00:59

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